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備後地域のゆるやかな連携体をつくろうと

出会いの装置製造本舗/Deainosouchi


出会いの装置製造本舗/Deainosouchi

「備後サロン」への想い


尾道青年会議所が、吾輩に卒業アルバムを進呈くださった。そのページを数十年ぶりにめくっていると、尾道JCライフという機関紙の片隅を埋めるため、広報委員会が吾輩に原稿依頼してきたのであだろう、当時吾輩が提唱していた「備後サロン」の構想の熱い想いを書き込んだ記事が、吾輩の思い出にというご配慮だと思うが、写真の横にスクラップされていた。
自らが書き込んだ、しかも完全に記憶の外へ放り出していた拙文に対面するのは、なんだか照れ臭い。読めば、随分と大上段に構えた文体で、何も恐れぬ夢多き若者であった吾輩の、1988年当時の熱が再び蘇ってきた。
以下、その記事をご紹介するとしよう。
『安定社会に於いては、組織の論理に従属することで組織はその卓越した調整力を発揮し、変革社会にあっては、突出した個のの統率力により組織は自らの抜群の行動力を発揮する。地域間競争の激化する中、ここ備後圏には、広域的連携は見られない。裏返せが各都市内のコンセンサスの欠如とも思われる。
備後サロンは、その解決の糸口にと模索されたものだ。各都市の民間企業、各種団体の若きリーダー。行政(県、国)の方々が一同に会する場として、人的交流による知的活性化と組織と個、組織と組織のネットワーク化を計ると共に、各地域の特性を生かした役割を明確にすることで備後圏のコンプレックス機能を高めることを目在している。同時に各都市でも、サロンメンバーを核としながら地域行政を交えた都市サロンを構成し、各地域のコンセンサスを確立することも将来不可欠である。
組織の論理を越えた行動が今求められている。備後サロンよ、順風であらんことを!』

<「備後サロン」から「出会いの装置製造本舗」へ>


1988年1月、吾輩の主人が尾道青年会議所から広島ブロック協議会に出向し、県東部地域政策委員会の担当委員長に就任した。そこで以前から構想していた県を越えた7つのJC(岡山県の井原、笠岡、広島県の福山、府中、尾道、因島、三原)に声をかけ「備後サロン」という緩やかな広域連携システムを立ち上げた。9月には、「予感する新瀬戸時代ー備後の可能性を求めて」をテーマにした「備後フォーラム」を尾道で開催。フォーラムには、国から広島通産局の井上孝総務部長や県の企画振興部の横内正明部長、自治体、備後地区の青年会議所理事長のほか、広域ネットワーク化を図る「備後サロン」のメンバーが参加し、山本一隆中国新聞事業局長の司会で将来を見据えた瀬戸内海・備後地域への有益な意見が交わされた。
しかしながら、JC(青年会議所)は、1年ごとにすべての組織が総替わりという仕組みとなっている。そのため、広島県の協力も得て、尾道じゅうにん委員会を事務局として、福山市、尾道市、三原市で活動しているまちづくりグループのリーダーで構成する広域連携体を組織した。それが「出会いの装置製造本舗」だ。一方、福山青年会議所は、吾輩がJCを卒業後に備後サロンの流れを一部継承し、びんご連邦会議を立ち上げたようだ。
「出会いの装置製造本舗」というこの任意団体で、当時の建設省中国地方建設局の後援によりまちづくりシンポジウム「モノクロ曼荼羅色とりどりPART1-部分と全体」(1991)、独自に参加者全員が仮装してのシンポジウム「モノクロ曼荼羅色とりどりPART2-脳内リゾート開発講座」(1992)、再び中国地方建設局の後援で「モノクロ曼荼羅色とりどりPART3-画面の中の路地考」(1992)、そして広島県の協力を得て、横浜市のアーバンデザイン室国吉直行氏のご案内で横浜の都市づくりを視察、その翌日に東京品川のホテルで第1回尾道ファン倶楽部-東京の集い『我等、尾道派』など、多くのまちづくり事業を展開した。

【出会いの装置製造本舗とは】


「出会いの装置製造本舗」とは、尾道市及び周辺地域の、主に任意のまちづくり団体やサークル(21団体)に所属するリーダー的な存在の個人で構成されていた。当本舗は、尾道のまちづくりについて、お互いの共通項を見い出しながら、それらを具体的に実践していく基盤づくりを行うことを目的として組織されたもので、尾道じゅうにん委員会が事務局をつとめた。
この「出会いの装置製造本舗」は、平成2年度の国土庁地方振興アドバイザー制度の受け入れ団体として、全国で初めてという4名のアドバイザーの派遣を受け1年間まちづくりを学び、また広島県の平成3年度及び4年度人づくり事業「ひろしまパイオニア塾」として事業指定された。それが[グルメ・海の印象派–おのみち–]でのシンポジウム「食べながら夢を語る人々」に継承されていく。
このシンポジウムは、食文化イベント[第1回グルメ・海の印象派-おのみち-]の食談「我等、尾道派」にゲストとして参加された大林宣彦映画監督(尾道出身)の「イベントには臍(へそ)がなくては」という言葉を受けての、吾輩の応えだった。そして、このシンポジウムは思わぬ人と人の再会劇を偶然に演出したようだ。吾輩が尊敬する現代芸術家・赤瀬川原平と大林宣彦の両雄だ。漏れ聞く会話では、若き日にオノ・ヨーコらも加わり彼らは交友関係にあったようで、東京では会えないお二人がこの尾道で何十年振りかで予期せぬ再会となったのだ。これがまさしく尾道が出会いの装置となった瞬間だと、吾輩はほくそ笑んだ。
ここで1990年8月尾道じゅうにん委員会が主宰した『出会いの装置製造本舗』の設立趣旨を紹介しよう。

[設立趣旨]


『人は人と出会い、互いの魅力ある人生を知り、人はものと出会い、新しい好奇心に染まって行く。そして人は事と出会い、自らの存在を確認する。
かつて、まちは出会いであふれた素敵な出会いの装置だった。迷い子になった子供たちが探検でもするかのようなハラハラ、ドキドキする出会いの宝箱であった。
私たちが、まちを「出会いの装置」と呼び始めたのは、互いに「出会えた」ことを感じ始めたころである。ひとつの共通体験をし、話し合い、葛藤することで自分の存在の意味を知り、自らの限界と可能性を感じながら、自分自身が変わっていくことを肌で感じ始めたころからである。
まちは、たゆみなく変化する生きものである。そして新しいものと古いもの、自然と人が幾度となくぶつかり合い、融合しながら、長い年月を経て、その土地特有の顔を創り上げてきたまちを、私たちは素敵なまちと呼ぶ。
まちづくりは、まさにこうした変動のエネルギーを生み出す「仕掛けづくり」にあるのではないかと思っている。人が人と、人がものと、人が事と「出会う」ことで、自らの生活の場のエネルギーを増幅させ、行動し始めたとき、まちは動き、まちは活きづく。ここに出会いの装置製造本舗が設立された。』
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